新批評(ニュークリティシズム)とテクスト論 [文学]
ひさしぶりに文学関連の話を少し。
ちなみに(実はあまり「ちなんでない」が)、このブログの内容はブログという電子ネットワークによる対外向け情報発信であると同時に、私的ノートの側面がある。つまり私自身の何らかの思考の整理や発展を企図しているということだ。むしろ後者の部分に主要な動機があると言ってよいだろう。なので中には一般的にならない話も混じることになる。今回の話などはそうだし、今までの中にもある。そのところは「あしからず」。ただしこれは当たり前のことかもしれないが、読者としての他者を想定していないわけではない。みなさんにも楽しんでいただけたら、何か考えるきっかけとなってくれたらと願いながら打鍵している(ここまでの文章を見るに、ともかく気負わずに綴っていきたい、私はそう感じているようである)。
さて「新批評」と「テクスト論」だ。
「新批評」とは一般的にアメリカ文学批評界において流行した文学研究の方法で、1930年代~1950年頃まで広く受容された(と私は認識している)。新批評はいわゆる「作品論」と少々似ているところがある。それは文学テクストを閉じた空間としてまず捉えるところである(「作品論」概念については少々心もとない。修正の必要があれば後ほど(いつになるか分からないが)修正したい)。「作品自体」に目を向けるという点で共通しているわけである。「新批評」はその閉じたテクスト内部の構造や主題を探求するわけだが、実は完全には「閉じていない」という矛盾を抱えている。どういうわけかというとその文学テクストを読む主体、つまり読者なり研究者なりは社会的・歴史的存在だということである。それは文学テクストに普遍的な要素を抽出しようとする「新批評」が実は社会的・歴史的にあらかじめ規定されている・束縛されていることを意味している。読者・研究者は不可避に時代のイデオロギーに浸されているというわけである。「新批評」はそういった「主体性」をいわば(意識的にか無意識的にか)隠蔽することの上に成り立っていた。
さて「テクスト論」はそうした社会性・歴史性を引き受けた上で文学テクストに対面する。つまり「意識的に」社会的で歴史的な読者として研究者としての「私」を引き受けるというわけである。しかしこのことには一般的な「テクスト論」理解との乖離があると思われる。どういうことかというと「テクスト論」の思想的方法とは別に、読む者の「主体性」や作者の「主体性」などを排除するという点が「テクスト論」的研究方法を採用している人々のなかにいたということである。これでは「新批評」と似たり寄ったりなことは明白だろう。
だが本来的な「テクスト論」はそうではない。J・クリステヴァの言葉に耳を傾けよう。
認識力に富む理性は、もろもろの言表(テクストをこれらに還元することは不可能である)が一つの総体(テクスト)へ変換するという事実や、同じく、歴史的・社会的テクストの中へのこの総体性のさまざまな組み込まれ方をも把握するのである。(『テクストとしての小説』19p)
今日では、テクストは科学、社会、政治をつらぬく手直しの作業が行われる──実践され、提示される領土となっている。文学のテクストは今日では、言説としての、科学、イデオロギー、政治の表面を突き抜けて、それらをつきあわせ、広げ、鋳直すことを目指している。(『記号の解体学 セメイオチケ1』p17)
「歴史的・社会的テクストの中へのこの総体性のさまざまな組み込まれ方」、「言説としての、科学、イデオロギー、政治の表面を突き抜けて、それらをつきあわせ、広げ鋳直すことを目指している」などの言葉から、クリステヴァがテクストを「閉じたもの」ではなく「開かれたもの」として理論的に構築しようとしていることを知ることができる。「織物」としての「テクスト」はそう、空間的に多層であるばかりではなく時間的に連続するものなのである(その点「新批評」は極めて空間的ではあるが時間的な要素を排除していると言える)。
さてここまで述べてきて、主旨としては多層体・連続体としての「テクスト」を私が称揚しているように感じておられると思う。それは確かなのだが、その一方でさまざまな要素をそぎ落とした「単純化」したがゆえに見えてくるものがあることもまた確かなのだと感じている。「単純化」とはただ要素を排除するのではあるまい。「論理的に考えられうる究極の地点まで行く」というのがそれではないかと思う。最近、社会学者の大澤真幸氏の論考を好んで読んでいるが、彼にはそれがある。現実と論理とのぎりぎりの地点での邂逅があるように感じるのだ。








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